로그인「看護師さん。景都が帰ったあとに持ってきてくれた」
帰った、という言葉を口にすると、彼の顔がわずかに固くなる。 あの夜、景都は一度は病院へ来た。医師の説明を聞き、入院書類へ目を通し、私の身体に差し迫った危険がないと確認したところで、会社から電話が入った。 病室の照明は半分だけ落とされていた。廊下を走るワゴンの車輪の音と、ナースステーションから聞こえる低い話し声。その中で、景都のスマートフォンだけが何度も震えていた。『行って。私は大丈夫だから』 自分の声まで覚えている。強がったつもりもなかった。本当に、その時はそう言うしかないと思っていた。「私、仕事へ戻ってって言ったよね」「ああ。言った」 今のスープの表面に細い湯気が揺れている。五年前の紙カップには、いつから湯気がなくなったのかも覚えていない。「だから行った?」「それだけじゃない。顧客情報が漏れたかもしれなくて、主要契約も止まりかけてた。俺が抜けたままだと――」 説明が会社の規模へ広がる前に、私は手を「看護師さん。景都が帰ったあとに持ってきてくれた」 帰った、という言葉を口にすると、彼の顔がわずかに固くなる。 あの夜、景都は一度は病院へ来た。医師の説明を聞き、入院書類へ目を通し、私の身体に差し迫った危険がないと確認したところで、会社から電話が入った。 病室の照明は半分だけ落とされていた。廊下を走るワゴンの車輪の音と、ナースステーションから聞こえる低い話し声。その中で、景都のスマートフォンだけが何度も震えていた。『行って。私は大丈夫だから』 自分の声まで覚えている。強がったつもりもなかった。本当に、その時はそう言うしかないと思っていた。「私、仕事へ戻ってって言ったよね」「ああ。言った」 今のスープの表面に細い湯気が揺れている。五年前の紙カップには、いつから湯気がなくなったのかも覚えていない。「だから行った?」「それだけじゃない。顧客情報が漏れたかもしれなくて、主要契約も止まりかけてた。俺が抜けたままだと――」 説明が会社の規模へ広がる前に、私は手を上げた。「待って。会社のことは、あとで聞く」 景都の口が閉じた。続きを飲み込むように、一度だけ喉が動く。「先に、私の話していい?」「ああ」 私はスプーンを持ち直した。「あなたがいなくなったあと、看護師さんがスープを置いてくれた。飲めなかったけど、冷めても捨てられなかった」「どうして?」「分からない」 答えてから、病室の小さな台を思い出した。透明な水差し、薬の袋、丸められたティッシュ。その端に紙カップだけが場違いなくらい普通の顔で置かれていた。「捨てたら、本当に一人になる気がしたのかも」 口にしてみても、それが五年前の私の気持ちだったのか、今になって付けた理由なのかは分からなかった。 景都からは、会議へ入るというメッセージが届いた。終わったら戻る、と書いてあった。「それを見て、仕方ないって思った。仕事へ行っていいって言ったのも私だし、景都は戻るって書いてたから」「戻れなかった」「うん。朝まで待った」
「どこへ行こうか?」「歩きながら決めない?」 景都は空を見上げた。雲は薄く、午後の日差しが駅前のビルのガラスに白く反射している。「雨は降らないらしい」 天気まで確認しているところは変わらない。けれど景都は先に歩き出さず、私が商店街の方へ向くのを待った。 休日の通りは思ったより人が多かった。店先のワゴンを避け、焼きたてのパンの匂いがする角を曲がる。何軒か飲食店の前を通ったのに、どちらも「ここにしよう」と言わないまま歩き続けた。 一往復して、結局、駅から近いファミリーレストランへ入った。窓際は親子連れで埋まり、奥の壁際だけが空いている。私はそちらへ向かった。「ここでいい?」「ああ」 景都は向かいの椅子を引いた。理由は聞かなかった。 注文したのはコーンスープとサンドイッチ。景都はメニューをほとんど見ず、コーヒーだけを頼んだ。「昼、食べたの?」「会議の前に。君に合わせて抜いたわけじゃない」 言い終えてから、景都は少しだけ眉を寄せた。先回りして弁解したことに自分で気づいたらしい。その顔がおかしくて、私は小さく笑った。 料理が届くまで、二人とも仕事の話さえしなかった。隣の席では子どもがストローの袋を丸め、母親に何度も広げられている。食器の音と店内放送が途切れず、黙っていても沈黙だけが目立つ場所ではなかった。 事故資料も契約書もないテーブルは思ったより広い。景都のスマートフォンは伏せられたまま、私のバッグも足元に置いたままだった。 運ばれてきたコーンスープを一口飲む。舌の先に熱さが残り、そのあとから甘みが来た。 病院で看護師が買ってくれたものは、こんな味だっただろうか。蓋も開けないまま冷えた紙カップしか、もう覚えていない。 スプーンで浮いたコーンを一粒だけ沈める。話そうと思ってここまで来たのに、喉の奥が急に狭くなった。「流産した日のこと、一度ちゃんと話したい」 景都の指が、コーヒーカップの取っ手から離れた。「……聞かせてくれ」 それ以上、景都は何も足さなかった。 私はもう一口
景都は少し眉を寄せ、水のグラスから手を離した。「別に」 視線だけが卓上へ落ちる。「俺は、まだ嫌いだ」「……そうなんだ」「でも、君の服を直したのも、母親にプリンを買ったのも、たぶん本当だ」 私は膝の上で指を組み直した。「嫌いなのに?」「ああ」「変なの」 景都がようやくこちらを見た。「君もだろ」 少し笑ったところへ蕎麦が運ばれ、会話がいったん途切れた。景都の器には葱が少ない。「葱、減らしたの?」「今は少ない方が好きだ」「結婚してた時、知らなかった」「俺も、君がブラックコーヒーを飲むようになったのを知らなかった」 瀬名の話をしていたのに、いつの間にかコーヒーの話になっていた。「事故のこと、もう新しい証拠を探さない?」「是正と補償は続ける。ただ、君のために別の犯人を探すことはしない」「うん。それでいい」 自分で言って、ようやく瀬名の死を追う時間が終わるのだと分かった。 景都は蕎麦を食べながら、私の次の言葉を待っている。事件も契約もなくなれば、会う理由は私たち自身しか残らない。「景都。今度は、事故じゃなくて、私たちの話をしたい」 彼の箸が止まった。「いつがいい」「まだ決めてない。でも、逃げないで話したい」 景都は、予定を決める代わりに一度だけ頷いた。 蕎麦屋を出る時、次に話すのは瀬名のことではない。そのことだけは、二人とも分かっていた。 事故の確認が一段落して三日、景都から連絡は来なかった。私も送らなかった。 これまでは、瀬名の事故記録を確認する、森下との面談時間を合わせる、制作会社から届いた資料を読む――会う理由には、必ず他人へ説明できる名前がついていた。 土曜の朝、洗濯機の回る音を聞きながらスマートフォンを開く。景都とのトーク画面は、前に会った蕎麦屋の住所で止まっていた。 前に自分で切り出した「私たちの話」が、画面の上に残っていた。 そう言ったのは
一度目の呼び出しで出た彼は、「終わったのか?」と聞いた。「どうして知ってるの」「今日行くと言ってた。時間までは聞いてない」 言ったことを忘れていた。景都は覚えているのに、私の行動を確認する連絡はしてこなかった。その違いに気づくと、少しだけ話しやすくなった。「和恵さん、元美容師だった。私の髪を見て、毛先が乾いてるって」「ありそうだな」「会ったことあるの?」「ない。施設の資料に職歴があった。俺は金曜に行く」 信号が赤になり、横断歩道の前で足を止める。電話の向こうでは、紙を置くような小さな音がした。仕事中だったのかもしれないが、景都は急かさない。「瀬名さんが意地悪だったかって聞かれた」 しばらく沈黙が続いたあと、何と答えたのかと尋ねられた。「服を直してくれた話。答えになってないよね」「和恵さんは、それで何か言ったのか?」 電話の向こうで、景都が何かを置く小さな音がした。私も施設でもらった紙袋を膝から下ろす。「裁縫が下手だったって笑ってた」「それなら、和恵さんは答えが欲しかったんじゃなくて、話したかったのかもな」「また分かった顔する」 電話の向こうで景都が息を止める。「……したか」「した」 少し笑った。「私も、景都に答えを聞こうとした。何て言えばよかったと思う、って」「俺は瀬名さんをよく知らない。決められない」「景都でも、知らないことあるんだ」「ある。増えた」 青信号になり、人の流れに押されて歩き出す。「プリン、持っていかなかった。瀬名さんの代わりみたいで嫌だったから」 景都は否定せず、自分もまだ何を持っていくか決めていないと言った。「じゃあ、向こうを見てから自分で決めて」「ああ。そうする」 電話を切る前、何か聞きかけてやめた。「また」とだけ言って通話を切った。◇ 金曜の夜、景都から短いメッセージが届いた。『面会、終わった』『何を
危険な時に黙って見ていてほしいわけではない。次に何か起きても、景都はきっと動く。その時、私のことまで勝手に片づけないでほしかった。 店を出る時、景都は会計票を取ろうとした。私は先に自分の分をレジへ置く。 「今日は別々で」 景都は会計票から手を離した。 外へ出ても、彼は追ってこなかった。 望んだ通りだったのに、駅までの道で私は一度だけ背後を確かめた。 瀬名和恵さんのいる施設を訪ねたのは、その三日後だった。景都から一緒に行くかと聞かれたが、一人で行くと答えた。彼は理由を尋ねず、「分かった」とだけ返した。 ロビーには折り紙の花と美容室の予約表が並び、消毒液に混じって甘い整髪料の匂いがした。受付横の棚には入居者が使う色見本が置かれ、白髪染めの番号が手書きで書き込まれている。 和恵さんは窓際の椅子に座り、古い美容雑誌を膝へ置いていた。 「莉子のお友達?」 最初にそう聞かれ、私は名刺を出しかけてやめた。 「番組で、一緒に仕事をしていました」 「テレビ? 莉子、テレビ好きだったから」 本人が出ていたのに、その言い方が少し可笑しい。和恵さんは私の髪を見て、「毛先が乾いてる」と美容師の顔で言った。 「莉子も、よく自分で前髪を切ってね。私が直すと怒るの」 「お母さん、美容師なのに?」 「母親は別みたい」 笑ったあと、和恵さんは急に真顔になった。 「莉子、意地悪だった?」 正しい答えを探す癖が出た。優しかったです、と言えば嘘になる。意地悪でした、と母親へ返すこともできない。 「撮影の前に、私の服を直してくれました」 口から出たのは、それだった。 「莉子が? 裁縫、下手なのに」 「下手でした。縫い目が斜めで、玉止めも大きくて」 「自分の袖は糸が出たままだったでしょう」 「はい。人の服だけ直してました」 和恵さんが声を上げて笑う。私も少し笑った。死んだ人の話をしているのに、笑っていいのか分からなかったが、彼女は気にしていない。 「昔からそう。人のことには口を出すのに、自分の部屋はぐちゃぐちゃ」
仕事の答えだった。「瀬名さんは戻らない。私が嫌ったことも、安心したことも消えない。それは、なかったことにできないよ」「ああ。俺には直せない」 景都がそう認めたことで、かえって息がしやすくなった。 森下は事故資料を閉じた。「新たな事実が出ない限り、他者関与を前提とした調査はここで区切られます。設備と運用の是正報告は別途続けます」 資料は閉じた。最後まで、誰か一人の名前に行き着くことはなかった。 会議室を出る時、景都が「送ろうか」と聞きかけてやめた。その言葉が途中で消えたことに気づき、私は自分から言う。「今日は電車で帰る。でも、駅まで一緒に歩いて」 彼は理由も距離も確認せず、鞄を持って立ち上がった。 殺した人はいない。 その無力な結論を、私は初めて一人で抱えなくてよかった。 事故の調査が一区切りした翌日、私は景都を駅前のファミレスへ呼び出した。重い話をするには、隣の席で子どもがポテトを床へ落とし、店員が笑って拾っているくらいの場所がよかった。 水のグラスが置かれるのを待ってから、私は言った。「もう、私を守らないで」 景都は眉を寄せ、ほとんど間を置かずに首を振った。「それは無理だ。何かあったら、たぶん俺は動く」「そうやって、すぐ条件を足すところ」「何もしない、は無理だ」 彼は水へ手を伸ばしたが、私の顔を見てグラスを戻した。 スマートフォンをテーブルへ置いた。「会社に電話する前に、まず私にかけて」「出なかったら」「その時は、その時。今から全部決めないで」 景都の指がグラスの縁から離れる。「私の分まで答えないで」 景都は少し眉を寄せた。「怖い?」 私は水のグラスを見た。「また、知らないうちに終わってるのが嫌」 注文を取りに来た店員の前で、会話が途切れる。私はハンバーグを頼み、景都はメニューを長く見た末に焼き魚定食を選んだ。「魚、食べるんだ」「食べる。出張先ではよく頼んでた」「結婚してた時、知